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純客観句の蕉門俳人 凡兆の栄光と挫折~札幌で「いにしえの日本を探る」講座

中村先生国学院大(東京)、国学院道短大(滝川)の研究者が古典文学や歴史の魅力を語る教養講座「いにしえの日本を探る」が11月19日(土)、札幌の北海道新聞社本社(中央区大通西3)で開かれました。同大の中村正明准教授が「栄光と挫折の蕉門俳人-芭蕉とその門人凡兆(ぼんちょう)」と題して講演し、ぶんぶんクラブ会員約140人が学びました。

松尾芭蕉の弟子の中で特に優れた高弟10人を「蕉門十哲」といいますが、野沢凡兆(生年不詳~1714年)は「蕉門十哲に入るかどうかの位置にいた人」(中村先生)。京都で医者をしていて、元禄期に芭蕉に入門。後に十哲の一人、向井去来と共に、蕉門の句集で最も評価の高い「猿蓑(さるみの)」を編さんしました。

あまり名高くなかった凡兆にいち早く注目したのは、明治時代の正岡子規だそうです。近代俳句が目指した写生による俳句の、江戸時代の規範として見出したのが、「純客観句」を作った凡兆でした。純客観句とは、読んだ瞬間に風景が目に浮かぶ、見ているそのままの句です。例えば次の4句。
   なが/\と川一筋や雪の原
   禅寺の松の落葉や神無月
   呼かへす鮒売見えぬあられ哉会場1
   ほとゝぎす何もなき野ゝ門構(いずれも「猿蓑」)
中村先生は「子規の『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』も客観句ですね」と付け加えました。

さて、凡兆は元禄元年(1688年)に芭蕉と知り合い、入門し、俳諧活動を始めたようです。旅先の芭蕉を訪ねて一緒に寝起きしたり、食べたり飲んだりと、大変親しく付き合いました。芭蕉は凡兆の俳諧の才能も認め、凡兆はわずか3年後に「猿蓑」の編者に選ばれます。中村先生は「猿蓑」編さんでの凡兆と芭蕉、去来のやり取りやエピソードを紹介し、「一句一句議論して作った句集だとよく分かる」と話しました。会場2

やがて、世間での凡兆の評価が上がり、俳人として有名になり、「これは俳人として誇り高いこと」(中村先生)。しかし「猿蓑」編さんの直後に、凡兆は芭蕉とたもとを分かちます。凡兆には、頑固で自分のことは変えず、人にはずけずけ言うところがあったらしく、芭蕉は才能を認めながらも、性格については気にしていました。芭蕉から離反後の凡兆は、牢獄に入ったり、京から追放されたりして、貧しい暮らしを送ったようです。

会場はほぼ満席。昨年の講座で取り上げた斎部(いんべ)路通に続き、あまり知られず、ちょっと変わった門人の話に興味深く聞き入っていました。