重要なお知らせ

ぶんぶんクラブの会員証を提示してお得なサービスを受けよう!

イベントリポート

芭蕉に寄り添って生きる 河合曾良を学ぶ 札幌で国学院大講座

2019/12/04

 本年度2回目となる国学院大(東京)、国学院大道短大(滝川)教養講座「いにしえの日本を探る 芭蕉に寄り添って生きる―芭蕉と河合曾良」が11月30日(土)午後、札幌市中央区の北海道新聞本社で開かれ、札幌市内をはじめ共和、小樽、旭川、砂川、岩見沢、江別、登別、苫小牧、新ひだか町静内などから115人が参加しました。

▲芭蕉と曾良について語る中村正明国学院大准教授
▲芭蕉と曾良について語る中村正明国学院大准教授

 講師は、国学院大文学部日本文学科の中村正明准教授。俳人松尾芭蕉と、芭蕉に寄り添って生きた門人河合曾良について、その人物と芭蕉との関わりや作句、彼の来し方行く末について話しました。

 松尾芭蕉は、江戸時代のみならず、現代においても俳人として広く知られています。芭蕉は、全国に多くの門人を抱えていました。中でも特に、芭蕉の身近に住み、その生活を支え、ともに俳諧に遊んだ人物が河合曾良でした。『おくのほそ道』の旅の随行者としても有名な人物です。曾良とはどのような人物だったのかを中村先生は曾良の人生を追いながら分かりやすく解説しました。

 

 曾良は芭蕉の5歳下で、ほぼ同世代。森川許六が描いた「芭蕉行脚図」の向かって右に描かれた人物として有名です。長野の諏訪湖近くに高野七兵衛の長男として生まれ、幼くして母方の河西家で養育。12歳で養父岩波久右衛門のもとへ。伊勢国長嶋の大智院良成法師に引き取られ、河合宗吾に。20歳で伊勢国の長嶋藩松平佐渡守良尚に藩に仕え、神道を学びました。34歳のころ江戸の神道家吉川惟足のもとに足を運び、37歳で長嶋藩を致仕。江戸深川に移りました。35歳のころ芭蕉に出会い、蕉門俳人として句作をはじめました。

 

 「初期の句作では、チームに分かれて作品を競っていました。蛙合(かわずあわせ)では、『うき時は蟇(ひき)の遠音(とおね)も雨夜哉』と読み、雨がしとしと降っている春の夜、遠くからヒキガエル(春の季語)の音が聞こえてくる様子を表現しました。物憂い雨の夜に、遠い方からヒキガエルの鳴き声がして、物寂しい気持ちがうかがえる様が描かれています」と中村先生は句の意味などを丁寧に紐解き、深川の芭蕉庵近くに住んで芭蕉の日常の世話をしつつ俳諧を学んだ曾良の穏やかで静かな性格に思いをはせました。

 

 講座では代表的な句を次々と読み解きながら、芭蕉が『君火を焚け』の中で曾良を「性穏閑を好む人にて、交金を断つ」とまで記した2人のお金を介さない親密な関係性「断金の交わり」について深く解き明かしました。

 

 おとなしくて身の回りのことをしてくれる曾良。46歳の芭蕉は、元禄2年(1689年)、41歳の曾良と「おくのほそ道」の旅に出ます。「この旅の中の曾良の役割は、芭蕉の身近な世話でしたが、日記もつけていました。昭和の初めに発見され、大きな評判をとりました。実際旅はどうだったのか。『おくのほそ道』と比べると同じところもあれば、違うところもあって大きな史料となりました。『曾良旅日記(随行日記)』として活字化されています」と中村先生。「河合曾良の『河合』は『おくのほそ道』の中でしか出てきません。わざと実際の人名を変えて表現し、実在の人物に迷惑をかけないようにした芭蕉の創作かと思います」とエピソードを紹介し、「河西をもじって河合にしたのではないか」と中村先生は続けました。

 

 後に芭蕉を箱根まで見送った曾良は、一生の別れを迎えます。江戸から見送るといっても品川までが一般的で長くても藤沢。箱根まで見送るケースはまれで2人の親密さが伺えます。その後曾良は諸国巡見使の随員として加わり、壱岐で病没しました。享年62。

 

 「芭蕉が亡くなる前、上方から江戸にいる曾良へ芭蕉が応援の手紙をしたためていたことが分かりました。まじめな穏やかな性格で、明治時代まで追善句集が出るほど後々まで慕われた人物でした。実際に芭蕉に寄り添った期間は少なかったけれども、面影としてずっと寄り添っていたのです。一番芭蕉の近くにいた門人でした」と締めくくりました。